Battle of Imphal

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ティディム道

ティディムロード マイバム ロックパチングにあるレッドヒルもしくはPt. 2926。この場所は、1944年5月20-29日に行われた象徴的な戦いのサイトであり、南部から日本が最もインパールに接近した場所である。Ranjit Moirangthemによる撮影。 ティディムロード マイバム ロックパチングにあるレッドヒルもしくはPt. 2926。この場所は、1944年5月20-29日に行われた象徴的な戦いのサイトであり、南部から日本が最もインパールに接近した場所である。Ranjit Moirangthemによる撮影。

 

 

「ティディム道での戦いは…ビルマ戦争における最も凄惨な戦いの一つであり、戦争の結末に深い影響を与えた」– Ian Lyall Grant, Burma – The Turning Point.

ティディム道はミャンマーのチン丘陵にあるティディム( Tiddim) 村から北にインパールへと延びている。日本軍の侵攻が始まったとき、ティディム村をベースとするインド軍第17師団が撤退する際に作った道路であった。撤退の際の戦い– トンツァン、シンゲル、サカウン–はビルマ側で行われた。日本軍がインパールへの侵攻途中、英国軍と対面した1944年4月から7月に戦いは集中した。

このほとんどの期間、英国軍はDT 「パンチ」コーワン少尉が率いるインド軍第17師団とインド軍第20師団第32旅団によって戦われた。スリム大尉によると、インパール-コヒマでの最も過酷な戦いの一つはティディム道とシルチャル-ビシェンプル行路において起きた。ティディム道では、スリム大尉が「ビルマ最強の師団」と呼ぶ日本軍第33師団が、英国軍と出会い戦った。この師団は柳田中尉が5月まで指揮し、田中信夫中尉がそのあとを引き継いだ。

日本軍によるビシェンプルへのまた別の侵攻の試みがインパール作戦の終盤に向かって続き、スリム大尉は「Defeat into Victory」 において述べている。「日本軍第33師団ほど、苛酷な環境の中で勇敢に戦い、
部隊規模が縮小し続けながらも攻めの姿勢を崩さなかった軍隊は、歴史上ほとんど他に例を見ないだろう」。彼はこう続ける。「軍の掲げた作戦が全く達成の見込みの無い絶望的なものでも、最高の勇気と大胆な行動を示した日本兵たちの不屈の精神は本物であった。これに匹敵する軍を私は知らない」


他の区域での戦いと同様に、ティディム道では南側からのインパールへの日本軍侵攻の試みが繰り返された。英国軍は断固としてこれを防ごうとした。数ヶ月に渡る両軍の猛烈な戦いに発展し、その結果再び、英国軍の勝利となった。チュラチャンドプル とビシェンプル の間にあるほとんど全ての村が戦いの舞台となり、ポツァンバム、ニントウコン、ニントウコン・カ・クノウ 、チノンゲイ、フーバラ[42]そしてモイランにも甚大な影響を及ぼした。

ティディム道での象徴的な戦いのいくつかは、ポツァンバム、そしてニントウコン、トルブン・バリケードとレッド·ヒル (マイバム・ロクパチン) 、日本軍が建てたインド平和記念館の場所でのものである。

イアン·ライアルは「Burma: The Turning Point」において次のように書いている。「チュラチャンドプルは日本軍にとってミニ・コヒマとでもいうべき集結地点だった。ティディムからの支援物資はここで前方への後方梯隊輸送へ届けられた。輸送車で前進できるところまで運ばれ、そこから丘へはラバで運ばれた。