Battle of Imphal

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インパール ~ コヒマ道

インパール・トゥレル川の流れに沿ったインパール・コヒマ道。この道は、1944年3月30日に日本軍によって切断され、最終的には1944年6月22日に再開通した。ランジート・モイランテムによる写真 インパール・トゥレル川の流れに沿ったインパール・コヒマ道。この道は、1944年3月30日に日本軍によって切断され、最終的には1944年6月22日に再開通した。ランジート・モイランテムによる写真

この道路は1944年に~今も存在~マニプルのライフラインそして外界との連絡道路として作られた。1944年3月30日、日本軍によって道が分断され、その後、英国軍が後退を始める前にセクマイ まで延長された。日本軍が進攻した戦闘の1つは、戦争記念館が建てられているカングラトングビで起きた。

英国軍側で、インド軍第17師団第63旅団がこの区域では5月の始めまで、その後はインド軍第5師団が活動した。英国軍による北方面の道路を開くための最後の奮闘 ~司令官H.ブリックス少将による指揮~ は後者によるもであった。日本軍側では北からのインパール侵略を目的とした第15師団 ~司令官山内正文中尉指揮~ が、活動した。

セクマイからの北方面の道路を開く戦いは時間がかかる難しいものであった。日本軍は丘の上に道が見渡せる防衛陣地を取っていた。ライマンの記述による英国軍からみた戦況の記録にはこう残っている。「道での戦いは、小さな攻撃が無限のように繰り返され、班、小隊、時には中隊の規模に及んだ。丘、狭道、橋にいたるまで孤立させられ攻撃・砲撃され、数が不足していた3インチ追撃砲大隊、ホーカーハリケーンもしくはヴェンジャンス、リー・グラントやスチュアート戦車が道路から応戦したが、主には銃剣や手榴弾で歩兵が反撃した。」

インパール~コヒマ 道はコヒマから英国軍第2師団、インパールからインド軍第5師団がカンポクピ の近くのマイルストーン109 で出会う1944年6月22日まで開通しなかった。