Battle of Imphal

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イリル・リバー・バレー

1944年4月5-15日に日本陸軍と英国陸軍の伝説的な戦いが行われたナンシンガム マッシーフ。Ranjit Moirangthemによる撮影。 1944年4月5-15日に日本陸軍と英国陸軍の伝説的な戦いが行われたナンシンガム マッシーフ。Ranjit Moirangthemによる撮影。

イリル・リバー・バレーはインパール - コヒマ道とほぼ平行に走っており、2つの道路は丘によって隔てられている。ライマンによれば、これらの丘は北でモルボム 、南でマパオ にて接しておりインパール作戦の間は「日本軍の防衛拠点」となった。 インパール-コルマ道 (Imphal-Korma Road) にて英国軍が日本軍第15師団と対するのと同じくして、インド軍第5師団はイリル川の西で活動しており、東側では英国軍の編隊が ウクルル道 を支配していた。

日本軍によるインパール侵攻を目的とした最初の猛撃のあと、その後の戦闘の多くは英国軍による日本軍のエリアからの駆逐を目的としたものになった。イリル川 に沿った ヌンシグム として知られ、そして英国軍がランナウェイ・ヒルと呼ぶ丘は、モルボムやマパオ周辺とともに主な戦場であった。

1944年4月7-15日のヌンシグムの戦いは、この地域での象徴的な戦いであった。その地形から戦略的に重要だったヌンシグムを巡る攻防は激しく、また北から進攻した日本軍がインパールに最も接近した地点でもあった。英国軍は装甲部隊、砲兵隊、歩兵隊を組み合わせ、空軍の援護を受けながら戦闘に臨んだ。W.J.スリム大尉はDefeat into Victory において次のように記している。「13日(1944年4月)、ホーカーハリケーンが山上の木々を吹き飛ばし、戦車は急斜を駆け上がり、歩兵隊は2つの峰(ヌンシグム)を強襲し-占拠した。日本軍の兵士は最後の一人となっても降伏せず、洞穴のなかで爆撃され、歩兵部隊と白兵戦となって滅せられるまで激しく防御を試みた」。多くの死傷者を出し、ライマンの推計では日本側だけでもおよそ250人の兵士が殺された。