Battle of Imphal

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タム-パレル道

シェナムとテンノウパル間のパレル・タム道。この延長道の戦いは第一次世界大戦のソンムにたとえられた。ランジート・モイランテムによる写真 シェナムとテンノウパル間のパレル・タム道。この延長道の戦いは第一次世界大戦のソンムにたとえられた。ランジート・モイランテムによる写真

この地域での戦いの熾烈さを語るのはエバンスとブレット=ジェームスである。「「ニッポンヒル」 – 「シタ」 –「クレタ・イースト・アンド・ウェスト」 – 「スクラギー」 – 「ジブラルタル とマルタ」。これらはシェナム サドル形と呼ばれたもので、外の世界には知られていない丘の名前であるが、ここで戦った者達の記憶から消えることは無いだろう。猛烈な戦闘のいくつかが起きた場所であり、膨大な数の英国人兵、インド人兵、グルカ兵、日本人兵の命が失われ、戦局を変えた場所でもある。ジャングルに覆われていた場所が、木の幹を残して全てむき出しになった」。

英国軍側では、1944年3月中旬から5月中旬までインド軍第20師団(インパールへ送られた予備軍の数より1旅団少ない)が活動しており、ダグラス・グレーシー少佐が指揮を執っていた。続いて、オウブリー・ロバーツ少将が率いるインド軍第23師団へと引き継がれた。彼らは日本軍第33師団山本少佐率いる「山本支隊」と対面した。山本支隊は師団の中核である戦車と機械化輸送、そして第15師団の2つの大隊を従えていた。 さらに左翼と右翼にはガンジー(INA)旅団とアザト (INA)旅団が脇を固めていた。(インパールとインド国民軍のセクションを参照).

インパールへとつながるシェナム・パス/サドルの周辺で、英国の旧防衛陣地を獲得するため、山本支隊は攻撃を繰り返した。数ヶ月に渡る英国軍の防御にも関わらず、戦いは第一次世界大戦におけるソンムの戦いのような様相を呈した。他の区域と同じく、英国軍の防御に対する日本軍の粘り強い攻撃は、非常に厳しいものであった (7月末に撃退完了)。ライマンは次のように書いている「…ジャングルの丘は爆撃で焼け野原になり、モンスーンが辺り一帯を泥地沼地へと化し、言葉に表せないほどの恐怖と酷い状況であった。一度泥にはまると、日本軍は塹壕を手榴弾で壊さなければならないほどだった。 さもなければ彼ら自身が身動き取れなかった。」

上記の戦いと共に、英国軍がベンネビスと呼ぶ場所やテンノウパル(とりわけ)、ロクチャオ橋 (the Lokchao Bridge) そしてモレー(Moreh) でも激しい戦いが起きた。ライマンが述べるところによると、興味深いことに日本軍はそれぞれの峰について独自の名前を付けていた。英国軍が呼ぶところのスクラギーはイトウ、クレタ東はイッケンヤ、クレタ西はカワミチ、そしてニッポンヒルはマエジマであった。