皮肉なことに、1944年の戦いの名前となったインパール自体での戦いは規模の小さいものだった。戦いはマニプルほぼ全域で激しく、北はヌンシグム南はマイバム・ロクパチン の近くにまで及んだ。 おそらく最もインパールへ影響を与えたことは2ヶ月以上もの間外界へのルートを経たれたことであろう–これは、 1944年3月30日のインパール-コヒマ道の寸断、そして1944年4月15日のシルチャル-ビシェンプル行路上のレイムタク川に架かる橋の破壊によるものであった。1944年6月22日にインパール-コヒマ道が再開通するまでは、都市は包囲され、物資はインパール平原の飛行場に届けられた(空の戦いセクションを参照)。
軍事的には、インパールは英国軍第4軍団の戦いの中枢であり続け、同時に第14軍とコミラ (現在のバングラデシュ)にいるスリム大尉の指令に基づいて運営されていた。スリムはその当時のインパールの第4軍団司令官スクーンズ中尉のような感触をつかんでいる「…車輪のすべてのスポーク[インパールへとつながる]での戦いが同時に起こった。時間も場所の状況は、司令官や兵士にも、今の私ほどにははっきりとわからなかった。スクーンズの司令部ではコンパスのどの地点からも昼夜問わず、信号やメッセージ、報告、成果発表、失敗、援軍、弾薬の請求、負傷者の救出、空軍への援護依頼が飛び交っていた」。
1944年の終わりにかけての数ヶ月、ビルマでの作戦展開を統合するため、第14軍団司令部がコミラからインパールへと移動した。スリム大尉が滞在したコテージが現在でもインパールのカングラ・フォート総合施設 で見ることができる。インパール市には英国のコモンウェルス墓地委員会による第二次世界大戦墓地が2つ存在する– インパール戦争墓地およびインパールインド軍戦争墓地 である。