Battle of Imphal

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世界からの結集

日本の戦没者記念碑、レッド・ヒル/マイバム・ロクパチング 日本の戦没者記念碑、レッド・ヒル/マイバム・ロクパチング

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「インパール・・・人々が、世界でもっとも過酷な軍事作戦の行われた場所としてあげる土地。日本人、英国人、インド人、グルカ人が、お互いに何千人を殺し合うために1944年に着いたのが、この場所であった。「日本軍はインドに侵入する夢に駆られて来た:他の軍は、それを阻止する必要に迫られて来た」-Louis Allen, Burma - The Longest War

インパール作戦は、他の多くの外国やインドの様々な所から人々を集結させた。世界中からこれほど多様な国籍と民族が集結したのは、最初で最後となった。1945年に作戦および戦争が終結した後は、部外者および外国人がインパールとその近郊を訪れることはほとんどなくなり、マニプルは世界の静かな片隅に戻った。

このセクションでは、「世界」が最後にマニプルを訪れたインパール作戦中、誰がにそこいたのかを見ておくことにする。


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英国

英国の存在は、主として、インパール作戦に参加した英国陸軍と英国空軍の兵士、パイロット、その他の人員で成り立っていた。これには特に、デボンシャー連隊、サフォーク連隊、ウェストヨークシャー連隊、英国国境守備兵、国境連隊、ノーサンプトンシャー連隊およびシーフォース高地人連隊が含まれていた。その後、インパール空中戦を監視した221戦闘団を構成する英国空軍飛行中隊において飛行していた英国のパイロットが加わった。

英国第2師団の兵士たちもまた、コヒマ戦に勝利して、1944年6月22日にインパール-コヒマ道が開通した後、インパールを経由してビルマ(ミャンマー)へ向かった。

日本

他のところで言及したように、日本の第15軍のうち約70,000人の兵士が、直接インパール作戦に参加しし、他の20,000人はコヒマへ向かった。前者は第15師団および第33師団に属し、51連隊、151連隊、213連隊、214連隊および215連隊からの兵士を含み、マニプル州全体にわたる戦闘を繰り広げました。コヒマの戦いで生き残った第31師団の数千の兵士は、マニプル州のウクルルを経由してビルマ方面へ退却しました。


その上、日本陸軍の第5航空師団のパイロットは、さらにインパールの空中戦にも参加した。

その他のインド

英国側の戦闘部隊の大部分、および英国インド陸軍のインド人兵士(それぞれ軍務、および前者)から成るインド国民軍と共闘。インドの兵士は多くの舞台で、たとえば、名高いところでは北アフリカ、イタリアおよびビルマ(ミャンマー)等で連合国の一部として戦ったが、彼らが第二次世界大戦中に自国で実際に戦ったのは、インパールとコヒマの戦いであった。

今日のインパールのインドの軍隊戦没者共同墓地への訪問は、インパール作戦と戦争の中で、マニプルおよびその周辺で死んだ兵士たちの様々な出自について-陸軍と空軍の両方から-考えさせられたからである。他に指し示すものとして、墓地の火葬記念碑に記されたその人たちの連隊の名前がいくつかあるということだ。これらには、とりわけ、次のようなものが含まれている。-第18ロイヤル・ガルワルナ・ライフル銃隊、第6ラージプターナ・ライフル銃隊、第14パンジャブ連隊、第5マハラタ軽歩兵隊、ヴィクトリア女王マドラス土木工兵および地雷工兵、第9ジェート連隊、およびアッサム・ライフル銃隊、等である。

ネパール

グルカ兵はインパール作戦で重要な役割を果たした。戦った英国第IV軍団の第49歩兵大隊のうち、16人はグルカ人であった。

さらに、戦いで勝ち授与された5つのビクトリア十字勲章のうち、3つはグルカ人が受けた。すなわち、ライフル銃士ガンジュ・ラマ、ナーイク・アガンシン・ラジ、そしてスベダールタパである。

アメリカ合衆国

インパール作戦へのアメリカ軍の関与は、主として米陸軍航空隊(USAAF)のパイロットによるものであった。これらの軍人は、インパール渓谷の中に散在した6つの飛行場から離着陸し、地上の軍隊に増援部隊を送り込み、避難する死傷者を避難させ、上空からの緊密な援護を送った。

よく知られていない事実として、アメリカン・フィールド・サービスの兵士がインパール作戦全体を通じて活動していたということがある。彼らの救急車は最前線で活動し、また、彼らは特にシルチャル行路、パレル・タム街道、ティディム街道、そしてインパール周辺で死傷者を収容、撤退させた。

カナダ

カナダの参加は、インパール渓谷の中および周辺に基地を置く英国空軍飛行中隊に入った多数のカナダ空軍のパイロットという形態であった。これらの軍人は、渓谷へ増援軍を輸送し、ビルマへ偵察機を飛ばし、インパールとコヒマの両方の戦いの中で地上軍を支援した。カナダのパイロットも、1944の後半、第14軍がインパールからビルマの中へ進攻する際に、活発に支援活動した。

ロイヤル・カナダ空軍の11人と人の兵士を含む12人のカナダ人が、インパール戦没者共同墓地に埋葬されている。

オーストラリアとニュージーランド

カナダの軍人と同様に、ロイヤル・オーストラリア空軍とロイヤル・ニュージーランド空軍の多数のオーストラリア兵およびニュージーランド兵が、それぞれインパール作戦に参加した。これらの兵士たちは英国空軍飛行中隊に入って、地上戦の間に陸軍を緊密に支援し、インパールの包囲およびコヒマの包囲、ならびに日本軍の補給線爆破を支援した。

5人のロイヤル・オーストラリア空軍兵士、2人のロイヤル・ニュージーランド空軍兵士、および1人のニュージーランド歩兵が、インパール戦没者共同墓地に埋葬されている。

パキスタンとバングラデシュ

パキスタンとバングラデシュは、1944年には独立国家として存在していなかったが、両国とインパール作戦との間には関係がある。その理由は、英国インド軍の兵士としてマニプルで戦った多くの兵士が、その後、パキスタン(1947年に)およびバングラデシュ(1971年)の市民になったことである。

興味深いことに、インパールのインドの軍隊戦没者共同墓地に埋葬されている600人以上のイスラム教兵士のうち、約400人が現在のパキスタン(圧倒的多数)およびバングラデシュの出身であった。

東アフリカ

次に、英国支配下のケニア、ウガンダ、タンガニーカ(今のタンザニア)、およびニアサランド(今のマラウイ)出身の兵士も戦時中マニプルにいた。彼らは1944年7月末日のインパールで、第33軍団に属する第11東アフリカ師団に配属された。

第11東アフリカ師団はインパール作戦に直接参加しなかったが、彼らはマニプルを通り抜け、カバウ渓谷に通ずるタム街道を通ってビルマに入った。彼らは8月から1944年12月までカバウ渓谷で戦い、イラワジ川まで達した。師団は、結局、1945年4月にビルマからインドへ引き揚げた。

マニプルは、このように、おそらく最も知られていないにもかかわらず興味深い戦争の局面に関連している。 それは、ビルマ戦において連合軍の一部として、アフリカ人兵士が参加したことだ。今日、インパール戦没者共同墓地には、東アフリカ人の墓が約40存在する。

東南アジア

東南アジアに定着したインド人社会は、ネタージ・サバッシュ・チャンドラ・ボースへおよびインド国民軍(INA)を支援する基盤を形成した。物質的支援の提供だけでなく、東南アジア諸国の多くのインド人はインド国民軍のために戦うことを志願した。正確な数字を見つけるのが難しいが、事例的証拠から、インド国民軍の第1師団の兵士としてインパール作戦に参加した者がいたことが分かる。