「コヒマ、インパールでの戦闘は第二次世界大戦における4つの転換点となった戦いの一つであり、それまで優位にあった者たちにとって戦争の流れが取り返せないほど劇的に変わったのだった」 (Robert Lyman, Japan's Last Bid for Victory)
軍事的見地からは、1944年のマニプルにおける戦闘はインパール作戦、またはインパールの攻撃、またはインパールの包囲、またはインパール戦等の名前で呼ばれている。このようにマニプル州よりは、通常は州都の町であるインパールの名が一般的に知られている。呼び名がどうであれ、1944年のマニプルで起きたことが単なる軍事的小競り合いでなかったことは明白である。
インパール、そしてナガランド州コヒマ周辺での戦いは(合わせてインパール-コヒマの戦いと呼ばれることもある)第二次世界大戦のビルマ戦における転換点だった。日本軍のインド侵略、アジア進行が止められたのがインパール-コヒマであり、それに続き、1945年には英国連合軍がビルマから日本軍を撤退させた。日本軍は、一つの敗戦としては最大級の約3万人の戦死者を出した。
英国軍事歴史家のロバート·ライマンはその著書Japan's Last Bid for Victory の中で、インパール-コヒマは第二次世界大戦における4つの転換点となる戦いのうちの1つと述べている。他の3つには、スターリングラード、エル・アラメイン、そして米国海軍と日本海軍の太平洋における戦闘がある。