Battle of Imphal

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空の戦い

インパール谷にある3ヶ所ある内の1つである全天候離着陸場、パレル離着陸場の遺跡。Ranjit Moirangthemによる撮影。 インパール谷にある3ヶ所ある内の1つである全天候離着陸場、パレル離着陸場の遺跡。Ranjit Moirangthemによる撮影。

空軍の支援がなければ英国軍はインパール作戦に決して勝てなかったであろう。地上での戦いと同様に空の戦いも激しいものであった。


エバンスとブレット=ジェームスは見事に説明している。「見逃してはならない特徴の一つは 英国空軍、インド空軍、米国空軍の役割であった。これら空軍の貢献がなければ、戦いの結果は違うものになっていたかもしれない。
少数の連合軍兵士のみが敵日本軍機を目撃したことに見て取れるように、日本空軍が効果的な活動をしなかったのに対し、苛酷な環境の中4ヶ月に渡りスクーンズ中尉の部隊に十分な補給をもたらし続けた。また、第4軍団を効果的に増強することになった。彼らの活動はそれだけに終わらなかった。敵軍の通信手段の破壊による間接的な支援と、地上で戦う兵士たちへの直接的な支援 -ヌンシグムの戦いが代表例- は、日本軍のインパール占領の野望をはねのけた」。


1944年、インパール渓谷には6つの滑走路が存在した。3つの全天候型滑走路はインパール・メイン(Imphal Main、もしくはコイレンゲイ飛行場[65])、パレルそしてトゥリハル (現在のインパール空港) であり、その中でインパール・メインが重要な役割を果たしていた。晴天時にはカングラ、ワンジン そしてサパムの滑走路も使われた。

インパール包囲中に、これらの飛行場はライフラインの役割を果たした。 ライマンは次のように述べる。「6月30日(1944年)までに、19000人の増援部隊、14,317,000ポンドの食料、1,303トンの動物飼料用穀物、835,000ガロンの燃料と潤滑油、12,000袋の郵便、および43,475,760本のタバコ等、76日の包囲期間中1日平均250トンが空輸された。4月の後半には最高に達し、15の飛行中隊から404機の空輸機が使われた。