Battle of Imphal

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インパールとインド国民軍

モイランのインド国民軍(INA)記念施設。記念施設には、インドの三色旗が1944年4月にインドで初めて掲げられた場所も含まれる。ランジート・モイランテムによる写真 モイランのインド国民軍(INA)記念施設。記念施設には、インドの三色旗が1944年4月にインドで初めて掲げられた場所も含まれる。ランジート・モイランテムによる写真

「… ネタージよ- 全インパールで今起きていることはとても重要だ」 Peter Ward Fay, The Forgotten Army

インパール作戦におけるインド国民軍の役割はいくら語っても強調し過ぎることにはならない。ピーター・ウォード・フェイがThe Forgotten Army(「忘れられた軍隊」)において当時のインド国民軍の観点を、次のように書いている。「チン丘陵に登るシャー・ナワズ(カーン)とその中隊へ、地上戦の方を好むが事務処理をしているプレム(クマール・セーガル)へ、招集の言葉を受けてネタージともう一度行く時を待ち望むラクシュミ(セーガル)へ、そしてネタージへ…インパールで今起きていることは、とてつもなく重要なことだ。インドへ突入することは、われわれの存在理由に関わることなのだ。それは、ビルマ-インド国境地帯でしかで起きえない。そのほかの場所では起こらないのだ。」

さらに、インパール作戦の間に起きたことは、両方のインド人兵士たちに大きな影響を与えた。 英国軍の大部分を占めるインド人兵士たち、そして日本側についたインド国民軍の兵士たち…

1944年3月中旬、インド国民軍特殊部隊の兵士は日本軍と共にマニプルへ入った。4月14日に、バハドゥル戦闘団のマリク大佐が、モイランにおいてインド本土で初めてINAの旗を掲げました。ここには今日、INA記念館が建っています。

インド国民軍 第1師団のおよそ7,000人もがインパール作戦に参加した。この師団の司令官はモハマド・ザーマン・キアニであった。スガタ・ボースはその著書「His Majesty’s Opponent」において、師団の司令部はチャモルに設営されていたと書いている。1944年4月の終わり、イナヤト・ジャン・キアニ中尉に指揮されていたガンジー旅団はタム-パレル道の山本支隊の左に配置され、その司令部をカンジョルにおいた。この部隊の約300人の兵士はプルム・チュンパン村経由でパレル飛行場 での
日本軍との合同作戦に参加した。この作戦は成功せず、インド国民軍兵士たちは撃退された。5月までこの旅団は、英国軍の反撃にも関わらずカンジョルとミトンクノウに留まった。


スバス旅団の2番目と3番目の大隊 -シャー・ナワズ·カーン中尉指揮- はチン丘陵において早くから活動しており、5月中旬にはウクルル に到着した。グルザラ・シン中尉指揮によるアザド旅団は、6月に山本支隊の右に配置され、ナルムに司令部を置いた。

しかしながらインド国民軍は、日本軍とインパール作戦の運命をともにし、全ての旅団は1944年7月18日には撤退を開始することとなった。