Battle of Imphal

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戦闘

シェナムとテンノウパル間のパレル・タム道。この延長道では、1944年の3月中旬から7月まで、日本の山本部隊と第20および第23インド師団の間で激しい戦いがあった。ランジート・モイランテムによる写真 シェナムとテンノウパル間のパレル・タム道。この延長道では、1944年の3月中旬から7月まで、日本の山本部隊と第20および第23インド師団の間で激しい戦いがあった。ランジート・モイランテムによる写真

インパール作戦は1944年3月、日本軍とインド国民軍がマニプルを3方向から攻撃する計画であった。第31師団が北、東北から - 山本支隊が南東から - 第33師団が南/北東から。英国軍は日本軍からの攻撃の兆候があった場合、インド-ビルマ国境に沿って配置していたタム[77]とカバウ渓谷のインド軍第20師団、ティディムのインド軍第17師団をインパール渓谷の端に引き上げさせる計画を持っていた。この英国の戦法は、英軍にとって有利な条件を導いた。


若干の懸念があったが、この戦法は最終的に成功した。というのは、日本軍は、マニプルから山々を越えたビルマのチンドウィン川に至るまで長く不安定な補給路を後退しながら伸ばして戦うことを余儀なくされたからである。山での物流の困難、モンスーンの始まりに加え錬度の高い訓練とサポート(医療チームと空軍支援)を受けた英国軍に直面し、日本軍およびインド国民軍の攻撃は失敗に終わり、1944年7月にビルマへ撤退することとなった。


英国軍第14軍司令官であり、ビルマ作戦を成功に導いたW.J.スリム大尉(のちの陸軍元帥子爵)は、その回顧録「Defeat into Victoryに」てマニプルでの戦いをこう述べている - 「幅のつり合いが取れていない車輪のスポークのように、6つのルートがインパール平原の中心であるインパールの町に合流した」 

(i)     北から、広いコヒマ道
(ii)    同じく北から、イリル・リバー・バレーを下る小道
(iii)    北東から、ウクルル道
(iv)   南東から、舗装されたタム-パレル道
(v)    南から、でこぼこしたティディム・ハイウェイ
(vi)   西から、シルチャル-ビシェンプル行路

これらの経路から日本軍は平原に結集しようとした。周辺での戦いは両群の作戦が入り乱れ、戦闘が絶え間なくおこり、その戦闘は激しく、混沌とし、死傷者を数多くもたらした。 日本軍による猛襲が繰り返されたが、その度に日本軍は撃退された。主な戦闘は上記の「6つの車輪のスポーク」の途上、もしくは周辺で起こった。砲門、戦車等を輸送できるのはそこに限られていたためだ。